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更新日 2021.6.17

南アフリカ共和国の金生産高 ~金鉱業と共に歩んできた国

南アフリカ共和国の金生産高

南アフリカ共和国(以下、南ア)は、1970年には鉱山生産量1000トンを誇り、世界全体の金生産量の7割強を占める世界最大の金生産国でした。

しかし、その後は自国の金生産量が減少したことや、他国の金生産量が増加したことで、世界全体の金の鉱山生産高に占める割合は減少、2019年現在の鉱山生産高は130トンを割り込み、世界全体の約4%、世界第9位の金生産国となっています。

世界の金生産量とそれに占める南アの金生産量の推移

出所:1970年まではアメリカ地質調査所、GFMS GOLD SURVEY

世界全体の金生産量の増加

世界全体の金生産量が増加したのは、鉱脈を発見する技術や採掘技術が発達し、新規の金鉱脈が発見されたことや、以前は金の採掘を行っても不採算となるため放置されていた地域でも採掘されるようになったためです。

2000年代に入り金価格が上昇したことが、この流れを後押しし、2019年にかけ、国別の金生産量の順位は大きく変動しました。中国やロシア、カナダ、インドネシア、ガーナなどが生産量を増やし、2019年現在は中国が世界最大の金生産国になっています。

2000年~2019年の金生産量の国別順位推移

出所:リフィニティブGFMS社 単位:トン

南アの金鉱業の現状、金の生産コストが上昇

南アの金鉱山の閉鎖

南アの金生産量が減少したのは、生産コストの上昇により、不採算の鉱山の多くが閉鎖されたことが要因ですが、長期間的な減少傾向の主因は鉱石の品位低下です。鉱石の品位は1969年の13グラム/トンから2004年には4グラム/トン強まで低下しました。これは、南1969年のわずか3分の1の金を生産するために、1969年の水準を20%上回る量の岩塊を採掘していることになります。

南アの鉱山は元々、埋蔵量が豊富な反面、金鉱石に含まれる金の割合が他国の鉱床と比べて低く、採算に乗せるのが難しい鉱山が多かったのですが、近年では、深度鉱山の増加、老朽化による不安定な電力インフラや電力価格の上昇、鉱山憲章の制定による人件費の増加、などの理由でも生産コストが上昇しています。

深度鉱山の増加

南アでは、長年の採掘で採算の採れる浅い地域の鉱脈の多くは掘りつくされ、採掘深度が3000メートルを超えるケースも多くなっています。採掘深度が深い鉱山では、排土の運搬費用や坑道を維持する設備などに掛かる費用が増大します。

深度鉱山では、坑道内の地圧、地熱ともに高まり、世界で最も深い採鉱地と言われる南アのタウトナ鉱山では、坑道内の気温も55度に達するため、常に冷却装置を稼働させる必要があり、同鉱山の使用電力の約半分は、この冷却装置の稼働に費やされるそうです。

また、鉱山の深度が深くなるほど、落盤や浸水などの危険も高まり、鉱山労働者の安全を保つために必要なコストも増加します。ただ、1990年代までは南アでの鉱物採掘業界の死亡率は高く、年間200~300人規模の死亡者がでていましたが、1996年に鉱山保安法が制定され、鉱山労働者の人権に対する保護が改善されたことや、2007年に鉱山保安の監査が導入されたことで、年間数十人規模まで死亡者数が減少しています。

南アの電力問題

現在の南アは電力問題を抱えています。

南アでは、国営電力会社エスコムが国内の電力供給のおよそ9割を賄いますが、同社は度重なる電力料金の値上げを実施しているにも関わらず、施設の老朽化や発電のための石炭価格の上昇などにより、電力の供給能力も低下しました。

国営電力会社エスコム

国営電力会社エスコムは南ア政府が完全所有する有限責任会社です。同社は1923年に電力供給委員会として、当時の白人政権が鉱山部門へと電力を供給する目的で設立され、2002 年 7 月の改組によって現在の会社となりました。

1994年の民主化以降、近隣諸国へ電力を輸出すると共に、過剰な設備を廃棄又は売却する方向で処理を進めてきましたが、南ア経済が発展するにつれ、消費電力の増加に対して施設の新設が間に合わず、2008年初めに電力危機が発生した後は、現在に至るまで解決されず、電気料金が繰り返し値上げされています。

南アの平均電力料金と鉱業と農業における電力料金の推移(c/kWh)

出所:ESKOM Tariff history

電気料金の不払い文化と反アパルトヘイト活動の負の遺産

南アの電力不足問題は根が深く、過去の反アパルトヘイト活動に起因します。

1980年代、反アパルトヘイト運動の一環として「統一民主戦線(UDF)」は、大衆動員を通じて急速に勢力を伸ばしましたが、それには家賃や消費のボイコット、労働者の職場放棄、抗議集会や示威行進などが含まれていました。

アパルトヘイト体制の終結後も、この不払い文化は続き、反アパルトヘイト活動の中心地だった旧黒人居住区ソウェト住民の80%以上が電気代を支払っていないそうです。住民の多くは、アパルトヘイト体制を打倒した報酬として政府は無料のサービスを提供すると受けとめており、電力危機が発生するまでは電気料金が非常に安い水準に抑えられていたことも、この認識に拍車をかけました。

また、鉱業は南アの基幹産業であるため電気料金の値上げ幅は、南ア全体の電力料金の値上げ幅と同等なのに対し、農業従事者には白人(ブーア人アフリカーナー、後述)が多いためか、農業の電気料金の値上げ幅が大きくなっています。

鉱業憲章

鉱業憲章は、アパルトヘイト(人種隔離政策)により「歴史的に不利益を被ってきた南アフリカ共和国の国民(HDSA)」、特に黒人の経済力の向上を目指し、南ア政府がBEE政策(黒人経済力強化政策)のひとつとして2002年に草案を公表し、2004年8月13日付けの政府官報として公布、同日施行。その後、2010年の改正で2014年までに鉱山権益の黒人株式所有率の26%以上とすることが定められました。

なお、ここでの黒人とは、南アで生まれたか、南ア人の子孫である黒人、カラード、インド人と定義されています。中国系南ア人も2008年に黒人と認定されました。

2018年9月に改正されましたが、黒人株式所有率が30%に引き上げられたことに加え、鉱山資機材の調達は南ア国内での付加価値が60%を越える製品に限るとの規定や、鉱山労働における人材育成や住環境の向上、周辺コミュニティへの貢献、地方企業成長への貢献などが求められる等、黒人優遇が促進されると共に南アの国内企業を保護する内容となり、海外資本が鉱業へ参入する際のハードルを更に高めました。

南アの歴史と金鉱業

鉱業憲章とアパルトヘイト

では、なぜ鉱業憲章ではこれほど極端な黒人優遇を定められたのかを理解するには、「歴史的に不利益を被ってきた南アフリカ共和国の国民」とは、どのような人々なのかと、南アの歴史を振り返り、アパルトヘイトの成立過程を知る必要があります。

南アは金鉱業と共に発展してきましたが、その開発の中心は白人でした。しかし、白人の人口は国民の2割程度と数は多くはなかったため、出稼ぎで訪れる黒人や、中国人やインド人などの労働者に仕事を奪われないよう、白人を優遇したことが、アパルトヘイトの下地となりました。

南アの金鉱脈の発見とトランスヴァール共和国

南アフリカ共和国で金が発見されたのは1852年、当時はトランスヴァール共和国の一地方であったウィットウォーターズランド(白い水の縁という意味)で、イギリスの地質学者ジョン・ヘンリー・デイビスが農場で露出した金脈から採掘しました。しかし、この時の金は財務省に売却され、金の存在は国家機密とされ、発見者は国外退去を命じられたそうです。

トランスヴァール共和国は、17世紀に南アフリカのケープ植民地に入植したオランダ系白人の国になります。彼らは農民を意味する(Boer)をオランダ式発音でブールと自ら称していました。現在でもボーアという表記が使われることもありますが、これはイギリス式の発音であり、ブール人とボーア人は同一です。現代ではブール人よりも彼らの自称である「アフリカーナー」が広く使われるようになっていますが、説明上イギリス系白人とオランダ系白人を区別する必要があるため、ここでは彼らのことをブール人と表記します。

ブール人はケープ植民地に入植していましたが、1814年にウィーン議定書でケープ植民地がイギリス領となり、1833年にイギリスで奴隷制度が廃止されたことをきっかけに、1834年に約1万人の移住者の第一陣が植民地から北上し始めます。この移動のことをグレート=トレックと言い、移住者には黒人奴隷も含まれていました。

ブール人は入植以来黒人を奴隷として大農園を経営しており、黒人奴隷を使役できる環境を求めて北上すると、時にアフリカ人を排除し、時に商業を通じ、1852年1月にトランスヴァール共和国、1854年2月にオレンジ自由国を建国しました。

ブール戦争

1867年初期にダイヤモンド鉱山が発見され、1886年に公式にウィットウォーターズランドで金鉱が開発され始めると、イギリス資本が流入することで急拡大する中で、イギリス系白人の鉱山技師が大量に流入し始めます。

イギリスはこの技師たちの保護を大義名分として先ずはオレンジ自由国を領有化。更に、1877年にイギリスがトランスヴァール共和国の併合を宣言します。ブール人はこれに抵抗して1880年12月16日に宣戦を布告し、1881年2月のマジュバの戦いではイギリス軍が大敗して講和に持ち込まれ、一定の自治を与えることで休戦しました。

しかし、その後もイギリスとトランスヴァール共和国の対立は続き、1899年10月にはブール戦争(ボーア戦争)が勃発。ブール軍は機関銃や無煙銃など最新のドイツ製の武器を装備しており、イギリスにとっても近代的な装備を有する軍との最初の戦争となりました。

ブール軍は首都陥落後も降伏に応じず、ゲリラ戦を開始したことで戦争は長期化します。

ブール戦争の間、政府に操業を許可された2,3の鉱山を除いて採掘が禁止されたため、1900年と1901年の2年間の金の生産量は18.87トンに過ぎず、1899年の126.57トンと比べて年間生産量は10分の1以下に落ち込みました。

出所:南アフリカ金興行史、アメリカ地質調査所、GFMS GOLD SURVEY

ブール戦争の終結

1902年5月、プレトリアで講和会議が開かれ終戦となりましたが、ブール人は「アフリカ人には選挙権を与えないこと」を条件のひとつとして主張。「アフリカ人の選挙権付与の問題は自治政体設置後に決定する」と、将来の自治の約束を取り付けました。

これは、ブール人が白人至上主義の宗教観を持っていたこともありますが、国内の人口比では白人の方が少ないため、黒人による白人支配を強く恐れていたこともあります。

この頃に南アの金鉱業の中心は深層鉱山へ移行し、鉱石の品位も低下しました。このため、鉱山会社は産金コストを抑えるため、黒人の賃金を引き下げました。また、人手不足に対応するために、中国人労働者を招き、低賃金で働かせています。

南アフリカ連邦時代

南アフリカ連邦は、現在の南アフリカ共和国の前身になります。

現代にまで禍根を残すアパルトヘイトが本格化するのはこの時代です。

1902年5月の講和後、イギリスはトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を併合。

ブーア人との関係改善を図り、1905年にはブーア人農民を勢力基盤とする人民党の成立を認めました。1906年には自治政府が樹立され、1910年5月31日に、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国に、ケープ植民地とナタール共和国を加えたイギリス連邦内の自治領として、南アフリカ連邦が成立します。

南アフリカ連邦は1911年、白人鉱山労働者を黒人との競合から保護するため「鉱山・労働法」を制定。これは、金やダイヤなどの鉱山で働く白人と黒人の職種区分と人数比を全国で統一する法律で、白人政府が白人労働者の暮らしを守るために打ち出した最初の人種差別法でした。

また、1913年にはアフリカ人を原住民指定地に隔離する「原住民土地法」が立法され、黒人の居住地は全国の9%(1936年13%に修正)に限定されました。これにより、白人が国土の肥沃な土地を独占し、人口の大部分を占める黒人にはやせた僻地しか与えられませんでした。

これに対し、黒人は、1912年には最初の民族組織であるアフリカ民族会議(ANC)を結成、1919年には労働組合の工商組合(ICU)を組織して反対運動を展開しました。なお、当時のANCは平和主義路線であり、武装化したのは1960年頃からになります。

一連の施策により、第二次世界大戦後の1948年までにはイギリス系白人とブーア人アフリカーナーとの経済格差は殆どなくなる一方、黒人に対する差別が強化されて行きます。

戦後の工業化が進む中で、半熟練・熟練部門へ黒人が進出し始めると、政府は1956年、人種に基づく職種制限(ジョブ・リザベーション)を導入し、白人労働者を保護しました。

この流れはエスカレートし、後に人種差別政策に反対するイギリスと対立。

1961年にイギリス連邦を離脱し、現在の南アフリカ共和国が成立しました。

当時の鉱山労働者の賃金

当時の黒人や有色人種の労働者の賃金は白人と比べて10~18分の1程度に抑えられており、非常に安い賃金の労働力を大量に確保できたことも、1970年までに金鉱山の生産量が増加した要因のひとつでした。

しかし、1940年頃から既に、労働力を増やせば採掘量を増やすことができる、比較的浅い深度での鉱脈はほぼ掘り尽くされており、伝統的な旧鉱区での生産量はかなり減少しました。その代わり、新規鉱山からの生産量が減少分を補ったことで、南ア全体での産金量は増加していました。

採掘には高度な技術が必要となり、南アの鉱山は次第に労働集約型の産業に変化して行きます。しかし、アパルトヘイト下での黒人(有色人種)の賃金は、名目賃金は上昇したものの、インフレ調整済みの賃金でみると、1930年頃から数十年間、ほとんど変化がなかったようです。

鉱業における年間平均現金収入

南アフリカ消費者物価指数に基づく調整

出所:IMF eLIBRARY Influences on Gold Production 単位:ランド

1960年代から現在まで、南ア金鉱山の発展と衰退

1960年代には採掘技術の発展により、以前よりも深い深度で採掘が可能になりました。1945年以前は、採掘の限界深度は約7500フィート(2.3キロメートル)でしたが、1950年代には、10000フィート(約3.0キロメートル)での採掘が実用化されます。

1967年には、金を含む鉱脈から直接抽出できる岩盤切断機のプロトタイプが開発されました。これにより、所定の金の抽出のために調達しなければならなかった鉱石のトン数が大幅に削減されました。また、新しい処理技術と抽出技術も開発されます。

旧鉱山地域での金鉱石の平均的な品位は、他国の主要な金鉱床よりも低いものでしたが、これらの技術革新は実質的に、金を含む鉱石の品位をあげたのと同等であり、採掘した鉱石から採れるトン当たりの産金量が増加しました。

しかし、南アの金鉱床は世界最大の規模を誇る反面、地域によって鉱石の品位が異なることから、当時の政府は「平均的な等級になるまで採掘する」と法に定めました。これにより金生産の効率は高まりましたが、この決定は同時に金鉱脈の深度化を加速し、鉱山の寿命が短くなるというデメリットがありました。

また、1960年代はベトナム戦争などで米国経済が深刻な打撃を受けドル危機が進行。1971年には、ニクソン・ショックが発生。世界的なインフレーションが進行し、生産コストが増加します。

南アの鉱山は元々、高コスト体質であるため、このような環境の変化に対して、生産量を減少させました。しかし、その後、金価格が低迷したことが追い打ちとなり、生産コストを下げるために不採算鉱山が閉鎖されるなどしたことで、1990年代には金生産量はピークの半分までに落ち込みます。ただ、半減しても500トン超の生産量を誇り、2000年までは世界最大の金生産国であり続けました。

南アの産金コストと金価格の推移

出所:リフィニティブGFMS社 単位:ドル

金鉱山と共に歩んできた、南アフリカ共和国

南アの歴史は金鉱山と共に歩んできた歴史であり、鉱業憲章はその象徴です。

鉱業憲章での「歴史的に不利益を被ってきた南アフリカ共和国の国民(HDSA)」とはここまで説明したような、不当な差別を受けてきた黒人やカラードなどの有色人種です。鉱業憲章は、本来であれば黒人や有色人種が享受できたはずの富を再配分することが目的とされます。

南アの金生産量の減少は、採算が合わなくなった鉱山を閉鎖したためですが、これは同時に、現在は採算が合わない鉱物資源を、将来、科学技術が発展し採算が採れるようになるまで保存するという役割があります。最近の白金やパラジウムなど白金系貴金属(PGM)や資源価格の高騰により、金に頼らなくても鉱山会社の採算が採れるという面もあります。

南アの通貨ランドの名称は、ウィットウォーターズランドに由来しています。

未だに南アフリカ共和国はアパルトヘイト時代の負債に悩まされ、鉱業憲章にみられるように、鉱山会社への当たりが非常に強くなっています。しかし、それらの逆凪を受けながらも、南アは未だに世界有数の産金国であり、現在の問題を解決した将来、再度発展する可能性があるのかもしれません。